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カテゴリ:お散歩写真
  • 邪馬台国が、分かった!  宇佐神宮その4
    [ 2006-06-13 23:31 ]
  • 邪馬台国は、あそこか? 宇佐神宮その3
    [ 2006-06-10 18:11 ]
  • 閉じ込められた神様 宇佐神宮その2
    [ 2006-06-09 17:23 ]
  • 四拍手をたたく神社 宇佐神宮その1
    [ 2006-06-05 11:17 ]
  • 大杣御所(おおそまごしょ)福岡県八女郡矢部村、大杣公園
    [ 2006-06-02 11:11 ]
  • 山中に女神あり (福岡県八女郡矢部村、八女津媛神社)
    [ 2006-05-29 17:28 ]
  • けほぎ岩(福岡県八女郡矢部村、日向神ダム)
    [ 2006-05-29 05:29 ]
  • いとゆかし(とても好奇心がそそられる) 福岡県八女郡黒木町
    [ 2006-04-29 16:54 ]
  • ちょうちん桜(福岡県山門郡瀬高町)
    [ 2006-04-19 16:24 ]
  • 浅井の一本桜(あざいのいっぽんざくら) 福岡県久留米市山本町
    [ 2006-04-08 16:16 ]
邪馬台国が、分かった!  宇佐神宮その4
 宇佐神宮の南大門を、巫女さんたちがお掃除していた。このずっと延長線上の方角(南)が大元山である。それでは、その先は一体どこだろうか。ポケットから地図帳を出して確認してみた。まっすぐ南へ行くと宮崎県だ。しかも高千穂町!高千穂といえば、日本神話における天孫降臨の地である。宮崎は日向(ヒュウガ)の国。日向は古来「ヒムカ」と発音していたらしい。「ヒムカノクロウマなんていう焼酎があったなぁ。ヒムカ、ヒムカ……おぉ!」
 とつぜん思い浮かんだのだ。卑弥呼(ヒミコ)とヒムカという発音が、ひじょうに似通っていることを。もしや卑弥呼とは邪馬台国の女王の個人名ではなく、女王の統治していた地名「ヒムカ」を指すのではなかろうか。もしくは逆に、女王の個人名が地名になったのかもしれない。すると、いずれにせよ邪馬台国はもともと宮崎だ!
 宮崎を「ヒムカの国」と呼ぶように、大分のことを「豊の国」と呼ぶ。魏志倭人伝によると、卑弥呼が死んだ後に邪馬台国を継いだのは台与(トヨまたはイヨ)という女王だ。これをトヨと呼ぶのなら、今わたしがいるこの大分の地こそ、まさに「トヨの国」ではないか!わたしは、邪馬台国の謎がすべて明らかになったような気がした。
 まとめてみると、日向の国の高千穂で生まれた邪馬台国(ヤマト国)が卑弥呼の時代に勢力を増し、その死後、ここ豊の国にまで勢力を拡大した。そしてその後、統治者は男王に変わり、初代神武天皇または第10代崇神天皇(この2人は、同一人物の可能性が高いという)の時代から、ここ宇佐神宮に祀られている第15代応神天皇のころにいたって勢力を拡大し、出雲を平定しながら東征してゆき、近畿地方に大和朝廷を押し立てたのだろう。
 結論を言おう。宇佐神宮に祀られている神様は、真ん中に比売大神こと「卑弥呼」、向って右に神功皇后こと「台与」、そして向って左に応神天皇こと「応神天皇を含む男王たち」ということになるのではなかろうか。宇佐神宮は、天皇家のまさに先祖を祀るお墓と呼ぶにふさわしい場所であった。

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by adwork | 2006-06-13 23:31 | お散歩写真
邪馬台国は、あそこか? 宇佐神宮その3
 井沢元彦さんや松本清張さんの説は、「邪馬台国宇佐説」と呼ばれている。この説によれば二之御殿の比売大神(ヒメオオカミ)は邪馬台国の女王卑弥呼(ヒミコ)であり、卑弥呼が皆既日食によって殺された事件が、神話における天照大神(アマテラスオオミカミ)の岩戸隠れとして伝えられているのだという。
 さらに、宇佐の邪馬台国が勢力を強め東方へ進出してゆき、出雲のオオクニヌシ勢力を「国譲り」という名のもとに平定し、近畿地方に大和朝廷をうち立てる。この事件は、神話における初代天皇「神武天皇(ジンムテンノウ)の東征伝説」として残っており、宇佐神宮の社伝でも、神武天皇が宇佐へおいでになり福岡の神湊(コウノミナト・福岡県宗像市)から船に乗って東征されたとある。
 宇佐神宮は天皇家にとっての起源の場所、先祖を祀るお墓というべき場所であり、だからこそ第48代称徳女帝が弓削の道鏡に天皇位を与えようと思ったとき、その是非を伺う為に、天照大神を祀る伊勢神宮ではなくこの宇佐神宮に和気清麻呂(ワケノキヨマロ)を派遣したのだという。
 わたしは、邪馬台国宇佐説はとても説得力があると思い宇佐神宮をお散歩してみたわけだが、閉ざされた二之御殿を見てなおさらこの説を確信することとなった。そうして二之御殿で四拍手をたたき振り向いたときに見つけたのが、上の写真の「大元神社遥拝所」である。なんでも、比売大神が降臨されたのが四角い窓の向こうに見える大元山(オモトヤマ・御許山)であり大元神社があり、宇佐神宮の発祥の地だというではないか。大元とは、物事の起源ということ。それじゃあ、あそこが邪馬台国なのか?


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by adwork | 2006-06-10 18:11 | お散歩写真
閉じ込められた神様 宇佐神宮その2
 宇佐神宮が誰を恐れ、誰を鎮魂する神社なのかは、3つの御殿をお詣りすればすぐに分かる。第15代応神天皇(一之御殿)と、その母である神功皇后(三之御殿)には何の問題も無い。参詣者に対して大きく開かれており、「さあ、お詣り下さい」とでも言われているようだ。ところが二之御殿(比売大神)だけは、ちょっと様子が違う。他の御殿より石段も1段多い5段で楼門の造りも一番立派なのに、参詣口は格子で塞がれ、参詣口の両側のせり出した部分には、見張り番とも思える武器を持った兵士風の人形が身構えている。これでは神様と参詣者との接触を拒否しているも同然だ。言い換えれば、これではまるで神様を閉じ込めているようなものだ。
 井沢元彦さんや松本清張さんの説によれば、この二之御殿に祀られる比売大神(ヒメオオカミ)こそが、邪馬台国の女王「卑弥呼」ということになる。卑弥呼は紀元248年9月に皆既日食が起きたとき、敵対していた狗奴国(くなこく、熊本のことか?)への敗戦責任によって殺され、タタリ神になったのだという。なるほどそれなら宇佐神宮で四拍手をたたくのも納得できるし、この二之御殿が閉ざされているのも納得できるというものだ。


一之御殿(応神天皇)

二之御殿(比売大神)

三之御殿(神功皇后)


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by adwork | 2006-06-09 17:23 | お散歩写真
四拍手をたたく神社 宇佐神宮その1

 5月の連休に、大分県宇佐市の「宇佐神宮」へとお散歩した。いうまでもなく、全国の八幡神社の総本宮であり、伊勢神宮につぐ「宗廟」(そうびょう、君主の祖先の霊をまつった建物)、「我が朝の大祖」と称えられてきた国宝なのである。
 上の写真は、宇佐神宮の上宮の南楼門で、参詣者はここでお詣りすることになる。4〜5段の石段が3ケ所あり、石段の奥にはそれぞれ違う神様が鎮座しておいでになる。楼門に向って、いちばん左の石段の奥・一之御殿に「応神天皇」、真ん中の石段の奥・二之御殿に「比売大神(ひめおおかみ)」、いちばん右の石段の奥・三之御殿が「神功皇后(じんぐうこうごう)」である。


 さてこの神社は、珍しいお詣りの仕方をしなければならない。普通の神社は、最初に2回おじぎをして、2回かしわ手をうって、最後に1回おじぎをするという「二礼、二拍手、一礼」というのがお決まりなのだが、宇佐神宮の場合一之御殿の入口の左脇に看板が立ててあり、この神社では4回かしわ手をうつように注意してある。つまり「二礼、四拍手、一礼」というわけで、なぜ四拍手なのかは分からないと書いてある。四は「死」に通じるので縁起のいい数字ではない。
 井沢元彦さんの「逆説の日本史」によると、このように四拍手をたたく神社は日本中でも「宇佐神宮」と「出雲大社」しか無いそうだ。「出雲大社」は大国主命(オオクニヌシノミコト)を祀った神社である。大国主命は、もともと出雲の国というか西日本の覇者であり、それが九州の日向(宮崎)あたりを起源とする天孫族によって支配権を奪われ、滅ぼされていくというのが、有名な「国譲りの神話」の歴史的実体だそうだ。四拍手をうつという行為は、大国主命のタタリを恐れ鎮魂するという意味合いなのだ。それではいったい、宇佐神宮では、誰を恐れ鎮魂するというのだろう?


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by adwork | 2006-06-05 11:17 | お散歩写真
大杣御所(おおそまごしょ)福岡県八女郡矢部村、大杣公園

 福岡県八女郡黒木町にある国の天然記念物「黒木の大藤」のことは以前にご紹介したが、その大藤を植栽された第97代後村上天皇の第6皇子「良成親王(よしなりしんのう)」のお墓が、この八女郡矢部村大杣公園にある「大杣御所」である。
 それにしても、どうも天皇家と藤というのは関係が深いようで、これは大化の改新の天智天皇と中臣(藤原)鎌足や、その後の奈良時代における天皇家と藤原摂関家の関係を思い起こさずにはいられない。良成親王と同じように、叔父の懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう)も福岡県小郡市の福堂地区の神社に藤を植栽され、「福堂の将軍藤」として現在も親しまれているのだが、この神社の名は「大中臣神社」という。中臣鎌足は大化の改新の後「大中臣」という姓を賜り、死後に「藤原」の姓を賜った。天皇家とそれにからみつくような藤原氏の歴史を考えてしまうのだ。
 良成親王は、天皇家が南朝・北朝に別れて争った時代、叔父の懐良親王の後を継ぎ、後征西将軍として南朝再興のため熊本の菊池氏などと共に北朝・足利氏側と戦ったが、志かなわずここ矢部村で亡くなったという。そのころの矢部村は、九州における南朝側の最後の砦として、歴史的にもクローズアップされる場所であった。
 矢部村は、福岡・大分・熊本の三県境に位置し、福岡県下最高峰の御前・釈迦岳をバックにした山深い場所であり、杣の里(そまのさと)とも呼ばれる。杣とは読んで字のごとく「木を育てる山」のことで、山の文化を大事にして残してゆきたいというのが、村のスローガンとなっている。渓流公園などもあり、今どき珍しく夏には川で泳ぐ子供の姿を見ることができる。
 明治11年5月、高良大社宮司船曳鉄門等の史家が文書や種々の考証をし、宮内省が矢部村大字北矢部字御側にあるこの墓を、良成親王の御陵墓と決定した。毎年、良成親王の命日とされる10月8日には、御霊を慰める為の浦安の舞が奉納される「大杣公園祭」が開催されている。

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by adwork | 2006-06-02 11:11 | お散歩写真
山中に女神あり (福岡県八女郡矢部村、八女津媛神社)

 日本書紀によると、はるか弥生時代、第12代景行天皇(大足彦尊)が八女の県(あがた)に巡幸されたとき、「東の山々は幾重にも重なって まことに美しい。あの山にたれか住んでいるか」 と尋ねられた。そのとき、水沼の県主(みぬまのあがたぬし)の猿大海(さるのおおあま)が「山中に女神あり。その名を八女津媛(やめつひめ)といい、 常に山中におられる」と答えたことが記録されている。八女の地名は、ここから起ったといわれている。すると水沼(みぬま)というのは、現在の久留米市三瀦町(みずままち)あたりか、筑後市水田(みずた)地区のことかもしれない。

 その女神を祀ったという八女津媛神社が福岡県八女郡矢部村大字北矢部字神ノ窟にあり、創建は養老三年(719年)三月と伝えられている。神ノ窟という地名からわかるように、長い階段をのぼっていった先にあるひんやりとした神秘的な洞窟の横に、社殿が建てられている。ひんやりとしているのももっともなことで、神社の脇にある手洗いには山からの冷たい涌き水が絶えまなく注がれているのだ。
 社殿の前には八女津媛のブロンズ像が飾られており、はるか神話の時代をほうふつとさせてくれる。境内入口付近には、樹齢600年以上といわれる大きな「権現杉」がある。そういえば、子供が3〜4人がかりでこの杉を取り囲んでいる写真を見た記憶がある。
 近くには浮立館(ふりゅうかん)という資料館もあり、五年に一度の秋の彼岸前後、境内において福岡県指定無形民俗文化財「浮立の舞」が公開されるそうだ。次回はいつのことだろうか?

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by adwork | 2006-05-29 17:28 | お散歩写真
けほぎ岩(福岡県八女郡矢部村、日向神ダム)

 奇岩である。岩山にポッコリと直径約12メートルの穴が開いている。蹴洞岩(けほぎいわ)という。なんでもむかしむかし、日向(ひゅうが、宮崎県)の神様がこの地へ天馬に乗ってやって来た時、天馬のひずめがこの岩に当ってしまい、こんな穴が空いたのだそうだ。ひずめで蹴ってほがした(穴を空けた)岩だから、「けほぎ」と呼ばれている。
 日向の高千穂といえば天孫降臨の地で、そこの神様がわざわざここまでいらっしゃったとは、なんともロマンチックな伝説であるが、天孫族とでも言うべき人々の日本征服の歴史を伝えていると考えれば、また違った意味を持つものかもしれない。
 地名は日向神(ひゅうがみ)といい、周りは約6Kmの渓谷になっており、日向神ダムが築かれている。桜の名所で、「日向神ダムの千本桜」と賞賛されている。八女茶の中でも特に珍重されている「矢部茶」の産地で、花の女王「しゃくなげ」の産地としても有名な人口約1,600人の「矢部村」の入口部分にあたっている。
 けほぎ岩も、地元八女の隆勝堂という菓子メーカーが「けほぎ饅頭」というのを作っており、名前だけは知られている。ところが、実際けほぎ岩を見たという人は意外に少ない。というのも、日向神ダムのメインストリートからは、けほぎ岩の穴が見えないからである。県道の三ケ所のトンネルをくぐって突き当たりのダムに到着するのだが、普通は右手の大きな通りへ曲がってしまう。実は、左手の細い道に入りダムの堤防の上(ここも県道らしい)を抜けて、いくつかの落石よけを兼ねた小さなトンネルを越えないと、この荘厳な奇岩を拝むことはできないからだ。

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by adwork | 2006-05-29 05:29 | お散歩写真
いとゆかし(とても好奇心がそそられる) 福岡県八女郡黒木町

 この藤は、お茶の名産地として有名な福岡県八女市から車で20分の、八女郡黒木町の素盞嗚神社(すさのおじんじゃ)境内にある国指定の天然記念物「黒木の大藤」、樹齢600余年を誇っている巨木である。どうでもいいことだが、黒木町は女優の黒木瞳さんの出身地でもある。
 素盞嗚神社の祭神はアマテラスオオミカミの弟のスサノオノミコト。海や嵐の神で、オオクニヌシノミコト(大黒様)をはじめとする出雲神話系列の神々の始祖であり、ヤマタノオロチ退治でも有名だ。そういえば神社の境内を這い回る藤の幹や枝は、まるでヤマタノオロチのようでもある。スサノオを祀る神社は祇園神社と呼ばれることが多い。祇園神社の総本社は八坂神社(京都市東山区)で、仏教における祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)と神仏習合したスサノオに対する信仰を、祇園信仰というのだそうだ。祇園は舞子さんだけじゃないんだねぇ。
 黒木の大藤は室町時代の前半、京都に北朝・室町幕府、奈良吉野に南朝政権が並立し争っていた南北朝時代が終焉した後の応永2年(1395年)、南朝側の後征西将軍であった良成親王(よしなりしんのう)が植栽されたものと伝えられる。良成親王は第97代後村上天皇の第6皇子で、正平22年(1367年)わずか6、7歳にして、叔父の征西将軍懐良親王(かねよししんのう)の留守居役として太宰府へ下向された。8年後の天授元年(1375年)14歳の頃、懐良親王から将軍職を譲られ、後征西将軍となった。1392年の南北朝合一後も南朝再興を図ったが、黒木町よりも山奥の矢部村「大杣御所(おおそまごしょ)」にて、再興の願い虚しく亡くなられたということだ。
 いずれにせよ、荒ぶる神スサノオを祀るこの地で繰り広げられた南北朝の争乱をしのびつつ、諸行無常を感じながら大藤の花を愛でることこそ、いとゆかし。

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by adwork | 2006-04-29 16:54 | お散歩写真
ちょうちん桜(福岡県山門郡瀬高町)

 わたしの母はこの写真を見るなり、「ちょうちん桜だ」と言った。丸くボワッとした花が鈴なりに咲く様が、たくさんのちょうちんを連想させたのだろうか、昔からそう呼ばれていたそうだ。
 バラ科サクラ属のいわゆる「八重桜」で、「里桜」「ぼたん桜」とも呼ばれる。この花を塩漬けにしてお湯を注ぐと「桜湯」になり、お茶を濁すという言葉があり縁起が悪いというので、婚礼の席でお茶がわりによく使われる。
 わたしの住んでいる九州では、ソメイヨシノやヤマザクラの花が終わった後、4月中旬から5月初めにかけて咲きみだれる。また、有名な大阪市造幣局の「桜の通り抜け」の桜は、この八重桜のことなのだそうだ。

     いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
 
 これは平安時代、宮中で紫式部の後釜に抜てきされた伊勢大輔(いせのたいふ)という女性が、「この世をば、わが世とぞ思う…」で有名な藤原道長の求めに応じて、奈良から献上された八重桜を詠んだ歌。八重と九重が重ね言葉になっているが、この「九重」というのは、昔中国では王宮を九重の門で囲んだことから「宮中」をあらわしているのだが、もちろん京の都「平安京」のこと。奈良の平城京よりも京都の平安京の方がいっそうすばらしいと詠んでいるのだ。
 このころの「八重桜」はいわゆる「ちょうちん桜」とは違う種類の「ナラノヤエザクラ」という小ぶりの桜だそうだが、わたしには豪勢に咲き誇る「ちょうちん桜」の方がイメージにぴったりな気がする。

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by adwork | 2006-04-19 16:24 | お散歩写真
浅井の一本桜(あざいのいっぽんざくら) 福岡県久留米市山本町

 桜の名所は数々あるが、最近は「一本桜」というのが人気となっている。ひっそりと孤独にたたずむ一本桜の風情が、日本人の感性にピッタリというわけだろう。
 この写真の一本桜は福岡県久留米市山本町、耳納連山の山裾にある「浅井の一本桜」(あざいのいっぽんざくら)。ため池の土手で満開の時を向かえた、樹齢約100年のヤマザクラである。ソメイヨシノよりも約一週間ぐらい開花が遅く、一般的な花見の饗宴が終わった後だから、静かで落ち付いた環境の中で花を愛でることができる。特に、前の池に映る「逆さ桜」は見応え充分で、夜はライトアップされるそうだから、来年は夜の一本桜を被写体にしてみたい。
 この桜の出自ははっきりしていて、近くの吉谷孝一さん(故人)という方が昭和天皇御大典記念に植えたものだそうだ。しかし浅井(あざい)という名称が一体どこから来たのかが、さっぱりわからない。ここの大字は耳納(みのう)だし、もしかしたら小字が浅井というのか?戦国の武将、近江の浅井長政も思い出したのだが、何の関係も無いみたいだ。う〜ん、桜は時として不可思議な謎のある植物だなあ。

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by adwork | 2006-04-08 16:16 | お散歩写真