![]() とつぜん思い浮かんだのだ。卑弥呼(ヒミコ)とヒムカという発音が、ひじょうに似通っていることを。もしや卑弥呼とは邪馬台国の女王の個人名ではなく、女王の統治していた地名「ヒムカ」を指すのではなかろうか。もしくは逆に、女王の個人名が地名になったのかもしれない。すると、いずれにせよ邪馬台国はもともと宮崎だ! 宮崎を「ヒムカの国」と呼ぶように、大分のことを「豊の国」と呼ぶ。魏志倭人伝によると、卑弥呼が死んだ後に邪馬台国を継いだのは台与(トヨまたはイヨ)という女王だ。これをトヨと呼ぶのなら、今わたしがいるこの大分の地こそ、まさに「トヨの国」ではないか!わたしは、邪馬台国の謎がすべて明らかになったような気がした。 まとめてみると、日向の国の高千穂で生まれた邪馬台国(ヤマト国)が卑弥呼の時代に勢力を増し、その死後、ここ豊の国にまで勢力を拡大した。そしてその後、統治者は男王に変わり、初代神武天皇または第10代崇神天皇(この2人は、同一人物の可能性が高いという)の時代から、ここ宇佐神宮に祀られている第15代応神天皇のころにいたって勢力を拡大し、出雲を平定しながら東征してゆき、近畿地方に大和朝廷を押し立てたのだろう。 結論を言おう。宇佐神宮に祀られている神様は、真ん中に比売大神こと「卑弥呼」、向って右に神功皇后こと「台与」、そして向って左に応神天皇こと「応神天皇を含む男王たち」ということになるのではなかろうか。宇佐神宮は、天皇家のまさに先祖を祀るお墓と呼ぶにふさわしい場所であった。 ![]() さらに、宇佐の邪馬台国が勢力を強め東方へ進出してゆき、出雲のオオクニヌシ勢力を「国譲り」という名のもとに平定し、近畿地方に大和朝廷をうち立てる。この事件は、神話における初代天皇「神武天皇(ジンムテンノウ)の東征伝説」として残っており、宇佐神宮の社伝でも、神武天皇が宇佐へおいでになり福岡の神湊(コウノミナト・福岡県宗像市)から船に乗って東征されたとある。 宇佐神宮は天皇家にとっての起源の場所、先祖を祀るお墓というべき場所であり、だからこそ第48代称徳女帝が弓削の道鏡に天皇位を与えようと思ったとき、その是非を伺う為に、天照大神を祀る伊勢神宮ではなくこの宇佐神宮に和気清麻呂(ワケノキヨマロ)を派遣したのだという。 わたしは、邪馬台国宇佐説はとても説得力があると思い宇佐神宮をお散歩してみたわけだが、閉ざされた二之御殿を見てなおさらこの説を確信することとなった。そうして二之御殿で四拍手をたたき振り向いたときに見つけたのが、上の写真の「大元神社遥拝所」である。なんでも、比売大神が降臨されたのが四角い窓の向こうに見える大元山(オモトヤマ・御許山)であり大元神社があり、宇佐神宮の発祥の地だというではないか。大元とは、物事の起源ということ。それじゃあ、あそこが邪馬台国なのか? ![]() 井沢元彦さんや松本清張さんの説によれば、この二之御殿に祀られる比売大神(ヒメオオカミ)こそが、邪馬台国の女王「卑弥呼」ということになる。卑弥呼は紀元248年9月に皆既日食が起きたとき、敵対していた狗奴国(くなこく、熊本のことか?)への敗戦責任によって殺され、タタリ神になったのだという。なるほどそれなら宇佐神宮で四拍手をたたくのも納得できるし、この二之御殿が閉ざされているのも納得できるというものだ。 一之御殿(応神天皇) ![]() 二之御殿(比売大神) ![]() 三之御殿(神功皇后) ![]() ![]() 5月の連休に、大分県宇佐市の「宇佐神宮」へとお散歩した。いうまでもなく、全国の八幡神社の総本宮であり、伊勢神宮につぐ「宗廟」(そうびょう、君主の祖先の霊をまつった建物)、「我が朝の大祖」と称えられてきた国宝なのである。 上の写真は、宇佐神宮の上宮の南楼門で、参詣者はここでお詣りすることになる。4〜5段の石段が3ケ所あり、石段の奥にはそれぞれ違う神様が鎮座しておいでになる。楼門に向って、いちばん左の石段の奥・一之御殿に「応神天皇」、真ん中の石段の奥・二之御殿に「比売大神(ひめおおかみ)」、いちばん右の石段の奥・三之御殿が「神功皇后(じんぐうこうごう)」である。 ![]() さてこの神社は、珍しいお詣りの仕方をしなければならない。普通の神社は、最初に2回おじぎをして、2回かしわ手をうって、最後に1回おじぎをするという「二礼、二拍手、一礼」というのがお決まりなのだが、宇佐神宮の場合一之御殿の入口の左脇に看板が立ててあり、この神社では4回かしわ手をうつように注意してある。つまり「二礼、四拍手、一礼」というわけで、なぜ四拍手なのかは分からないと書いてある。四は「死」に通じるので縁起のいい数字ではない。 井沢元彦さんの「逆説の日本史」によると、このように四拍手をたたく神社は日本中でも「宇佐神宮」と「出雲大社」しか無いそうだ。「出雲大社」は大国主命(オオクニヌシノミコト)を祀った神社である。大国主命は、もともと出雲の国というか西日本の覇者であり、それが九州の日向(宮崎)あたりを起源とする天孫族によって支配権を奪われ、滅ぼされていくというのが、有名な「国譲りの神話」の歴史的実体だそうだ。四拍手をうつという行為は、大国主命のタタリを恐れ鎮魂するという意味合いなのだ。それではいったい、宇佐神宮では、誰を恐れ鎮魂するというのだろう? ![]() 福岡県八女郡黒木町にある国の天然記念物「黒木の大藤」のことは以前にご紹介したが、その大藤を植栽された第97代後村上天皇の第6皇子「良成親王(よしなりしんのう)」のお墓が、この八女郡矢部村大杣公園にある「大杣御所」である。 それにしても、どうも天皇家と藤というのは関係が深いようで、これは大化の改新の天智天皇と中臣(藤原)鎌足や、その後の奈良時代における天皇家と藤原摂関家の関係を思い起こさずにはいられない。良成親王と同じように、叔父の懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう)も福岡県小郡市の福堂地区の神社に藤を植栽され、「福堂の将軍藤」として現在も親しまれているのだが、この神社の名は「大中臣神社」という。中臣鎌足は大化の改新の後「大中臣」という姓を賜り、死後に「藤原」の姓を賜った。天皇家とそれにからみつくような藤原氏の歴史を考えてしまうのだ。 良成親王は、天皇家が南朝・北朝に別れて争った時代、叔父の懐良親王の後を継ぎ、後征西将軍として南朝再興のため熊本の菊池氏などと共に北朝・足利氏側と戦ったが、志かなわずここ矢部村で亡くなったという。そのころの矢部村は、九州における南朝側の最後の砦として、歴史的にもクローズアップされる場所であった。 矢部村は、福岡・大分・熊本の三県境に位置し、福岡県下最高峰の御前・釈迦岳をバックにした山深い場所であり、杣の里(そまのさと)とも呼ばれる。杣とは読んで字のごとく「木を育てる山」のことで、山の文化を大事にして残してゆきたいというのが、村のスローガンとなっている。渓流公園などもあり、今どき珍しく夏には川で泳ぐ子供の姿を見ることができる。 明治11年5月、高良大社宮司船曳鉄門等の史家が文書や種々の考証をし、宮内省が矢部村大字北矢部字御側にあるこの墓を、良成親王の御陵墓と決定した。毎年、良成親王の命日とされる10月8日には、御霊を慰める為の浦安の舞が奉納される「大杣公園祭」が開催されている。
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